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何度もの再生

シリアスな話×
エッセーの出来そこない○

ふと、人は最低でも二回は死ぬんだなあと思いました。
赤ん坊は、なにも知らないけれどなににでもなりうるような半透明な生き物として生まれてきて、それがだんだんと言葉を覚えハイハイをしてやがて立ち上がり身の回りにあるものを認識していって、不透明度を増してゆき、小学校に上がるくらいにはちゃんと生き物としてこの地を駆け回るようになる。
しかし、それはまだお母さんの持ち物であり、家族の所持品としての立場で存在している状態と言ってもいいと思うんです。持ち物って言い方は極端だけれども、しかし、自分のことを自分だけで決めたり、行動したりはさせてもらえないし、親の言うことに従うことがすんなりと出来る時期だという意味では、両親という傘に守られて、かつはその中からはみ出さないでいるわけです。
そこから、まだまだ成長を続け、ふと「傘」に気が付く瞬間、それが思春期じゃないかな、そしてそのタイミングで人は一度死ぬのではないかと思うのです。
あらゆることを考えながら、家族の――お母さんの意識と半分くらい共有されていた自分の意識を切り離す必要に気付かされ、そうして一人の人間として外の世界へと目を移しながらもう一度生まれ直すのではないか。だからあんなにも何重にも膜の張ったような、身体の内側にかさぶたがいくつも覆っているような、張りつめていた弦が理不尽にゆるむような春の曇天を眺めるときに似た感覚を何年か抱えなければならないのではないだろうか、と。

そして、二回目はいわゆるあの「死」。つまり、心臓が止まり呼吸が止まり云々の死。
ということで、身体は生きていても死んでいくということがあるのではないかというのがまず一つ目の話。

ところが――ここからがもう一つの言いたいことなのですが――死ぬのが二回だけで済んだらいい方じゃないだろうか。
たとえば、大病を患ったのちに奇跡の生還をした人は大抵、なにか共通の感覚を持ちかえった表情を浮かべます。あれはつまり死を経験したものに共通の世界の見え方を示しているのではないでしょうか。また、これは個人的な話ですが、私は社会のフチから落っこちて二年くらいぐるぐると重ったるく倦んだ青が巻きつくような悪夢の中を往くこととなり、そこから戻ってきたとき、なんだか妙に年をくったような、あるいは人工冬眠から目覚めたような気がしました。
ですから、「どうしようもない」なにか大きな力が、内側なり外側なりから働いたとき、ときに人は死ぬのではないでしょうか。
そして、何度か「死んで」いる人と、二度しか死なずに済む人では、なにか異なるものを感じるのです。前者は、世界の薄皮がめくられたときにそなえるような微笑を浮かべさまよい歩く一方で、後者は、自分の生きている・見えている世界がまったくたしかで、変わらないという自信を土台にぬしぬしと大股で歩くような。そんな違いです。
当然、死ですから、滅多にあっては困る経験なわけで、二回しか死なずに済むのであればそれに越したことはありません。ですが、何度でも死ぬ可能性があり、そのたびになにかが生まれ直すのではないかと考えたとき、私の中ではなにか納得しました。
だから、死は終わりの始まりと扱われることがあるのではないか、だから、大きな変化を乗り越えた人は表情が変わるのではないか、と。



久々に浮上できたーと思ったらどえらい真面目な調子で書いちゃったよ!!!!!
あ!学校の制作物ひと段落ついたかもしれませんヤッターーーーーー!!
もうまとめ役はやりたくないなと思いました(ゲンナリ)
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