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無時代感

こんにちは。
オタクなのにオタクと話が出来ない悲しみと私は一体なんという生き物なんだという疑問の話を前回しましたが、今回は無国籍料理ならぬ無時代環境に置かれているような感覚について話したいと思います。

リビングのテレビでは祖母の好きな美空ひばりや昭和歌謡の番組が流され、自室では電子音なミュージックを聴き、SFと純文学を読みふけり(いや読みふけりってほど夢中で大量じゃない。ちょびっとずつ眺めて)、ガンダムぐらい見ないとかなあと思いながら机に目をやるとノートパソコンとゲームボーイカラーが仲良く並ぶ中私はパソコンを立ち上げピクシブをチェックしながらツイッターの画面を開く。という、こんな様子に無時代だなあと感じるのです。
そして、こうやって半世紀分くらいのいろんな要素がぐちゃぐちゃの中に囲まれていると不思議と自分まで自分がいつどこに立っている人間なのか判然としなくなる心地がするのです。
まず、爆発的でみんなが知っている大ブームという、こう、関東ローム層みたいな、同時代の人間なら掘れば必ずその火山灰の地層にどっかで行き当たる具合に全員共通の、って感じに、ある時代を定義づけるようなものがそうそう見つからないように思いますし、あまりに好みが細分化されっちまった結果かえって私ってなんだろなあって問いへの答えを見つけるのが難しい、そこへ無時代感が襲う!
するとなにか、私は私でございますと完全に言い切ることまで難しい心地がしてくるわけです。ここに私が居るというだけでは人間という生き物の場合説明にはならないのですね、まったく厄介なことに。
人間は人間に生まれたというだけでは人間になれないのだ、人間のもとで育てられ教育されることで人間になるのだというそれですね。社会に適応できない部分を端々に感じているわたくしにはまったく耳の痛い話でございます、人間は社会に属する生き物なりという話は。
ただこれはひとつ言っておきますと、たしかに、それはそうであります。

どっかに属しているという安心感って、実は普段は意識しなくともかなり大きいものです。普段脳みそあんのかいなってぐらいズルズル遊んでもうお前なんやねん見てるこっちがイライラするわっていうような学生が不思議と学校を辞めない上に、なぜか受験や就職となると唐突になんとかしようとするのはそういうわけです。何者でもない自分、どこにも属していない自分というものへの恐怖感があるからそれを避けようという努力は惜しまないわけです。だから高校卒業後は無職やります! って堂々と宣言できないわけさ。学生って看板の下にとりあえず入っていればそれだけで精神は安定するし社会人って看板の下にとりあえず入っていればそれだけで安心するのです。これはまぎれもない事実です。

どこにもいられないという苦痛は想像以上のものです。己が誰であるかという証明さえ自分だけでは行えないのだということがこれ以上なくよくわかります。
と、続けるとこの無時代感の話が、たかが偶然自室に集まった要素に過ぎないのに、そうやって特定の時代に属しているという感覚が喪失することで、自分はなんなのだということまでも不明瞭にさせるシリアスなものになりうるというのも現実味が出てきますね。
そうやってもやぁ~っとした無時代感の漂う部屋の中で、それを笑い飛ばすように「私いくつだよ!!!」と叫ぶのは、しかし、なにか切ない楽しさがあります。

切ない楽しさで、切ない身を背負って、そうしてニコニコと静かな充足を探すような、そういう感覚を、どこかで見つけてしまう、これは一体どうやってこの心へ入り込んだものなのでしょう、私にはその答えを見つけ語ることはできません、ただエッセイめいた文体でもじもじと書いてみるばかりです。
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